フリーアナウンサー 関根友実 公式ホームページ

バイオグラフィ

生まれた時からビッグサイズ

 3200gで生まれ、スクスク成長。中学に上がるまで背はいつも一番後ろ。 肩幅もガッシリしていてデカイことが嫌で、158cmで成長が止まることを常に祈っていました(158cmというのはアイドルの身長と思い込んでいました。 ちなみに体重は42kg。これぞ堂々たるアイドル体型と信じていたのです)。 しかしながら本人の願いもむなしくあっけなく158cm 42kgの壁は破られ、はるか超えてしまったのでした。

生まれた時から夢は漫画家

 小さい時から絵を描くのが好きで好きで、物心ついた頃には既に夢は漫画家。小学校の頃から大学ノートにストーリー漫画を描きためては友人たちに見せて喜んでいました。 憧れるきっかけとなったのは手塚治虫さんの『ブラックジャック』。 幼稚園に上がる前から愛読していました。 漫画処女作は『クイーン・バイオレット』というスゴ腕の女医さんの話でした。 ブラックジャックと同じように顔と心に傷を負うというストーリーで、バイオレット嬢の恋模様も確か描いていた気がします。 全4ページ。 幼稚園上級組の時の作品です。

 その後は、同じく漫画家志望の従姉と組んでは漫画雑誌を作成。親戚に見せて歩いていました。 小学校高学年ともなれば、少しずつHなことにも興味を覚え始め、細かい事情はさっぱりわかっていないにもかかわらずH系の雑誌も作成。 カップヌードルをもじって、題して『カップルヌード』。 ・・・何とも恥ずかしいネーミングでした。 この雑誌はさすがに大人に見せる訳にもいかずに、気心知れた年の離れた従姉に見せたりしてました。 おバカな少女時代ですね。

 その後も、インクとペンで実線を入れたり、スクリーントーンを貼ってみたりとそれっぽく頑張ってみましたが、結局、大学受験を前に、大学をとるか漫画をとるかで悩みに悩み、受験を選択。 漫画家になれなかった一番の原因は、男性経験がまったくなかったので男の人を描いても全然格好良くなかったことだと自分では納得しています。でも、単に才能がなかったのだと思います。

なぜゆえアナウンサーに……?

 よく聞かれることなのですが、私が一番なりたかった職業は漫画家です。 自分の作品がアニメ化されたり映画化されたり、ドラマになったりすることに憧れていました。 何より手塚作品を始めとして、漫画は人の心を深く揺さぶる素晴らしい芸術作品であると思っています。 「自分の表現したもので、人を感動させたい。もっともっと次が読みたいと思わせたい。」この気持ちが夢の原点でした。

 夢に挫折し、何もなくなった私は自由ばかりが存在する大学生活を、バイトやサークルやコンパと、ただ表面的ばかり忙しく、流されるように過ごしておりました。 あるきっかけがあって参加した地域のボランティア活動で、目の不自由な人たちの運動会のお手伝いをした時のこと。 ある男性の手を取って付き添いとして中距離を走りました。 触れ合うのは手だけ、交わすのは言葉とエールだけの世界。一所懸命励ましました。 ゴールに着いた時、その男性は私の声を「関根さんの声は、温かくてとてもいい声をしている。励まされました」と褒めてくれたのです。思えばそれが、声を使った仕事に就きたいと思った原点だったのだと思います。

5年間の局アナ生活

 運良く朝日放送のアナウンサーとなり、長かったようで短かった5年間、今思えば楽しく充実した日を過ごさせていただきました。 食べ歩きしたり、商店街から生中継したり、高校野球の実況したり、パンスト綱引きしたり、そうめんの早食いしたり、たまにニュース読んだり……遊びなのか仕事なのかよく分からないような仕事も多かったです。

 ポリシーはただ一つ。「仕事は何でも引き受ける。」 これは、私が学生の頃、アナウンサー受験生だった時に出会った久能靖先生(元日本テレビアナウンサー)の教えです。

 そのポリシーの下、何でも体当たりで仕事をしているうちに、体が悲鳴をあげはじめました。 重度の成人性気管支ぜんそく。 しゃべる仕事なので、いつ発作が起きるかドキドキする日々。 ラジオのニュースのとき、発作が起きてカフキー(音声のON/OFFのスイッチ)をOFFにしたまま咳込んだ時、もうこれ以上は難しいのかもと覚悟しました。 結婚して3年、子供も欲しかったことから医師に相談し、仕事を辞めて治療に専念する決心をしたのです。 朝日放送にはたくさんの尊敬する先輩もいたし、かけがえのない仲間(同僚や後輩)もいました。 それに社外のスタッフにも貴重な友人たちがいて、そのすべてを失うことが一番つらかったです。

 私にとって放送という仕事は、多くの人と共同して一つのものを作り出していく作業であって、最高の喜びはチームで得られた充実感、達成感であったことに気付きました。 でも一人の生活者として足もとを見つめる時間を持つことを選んだことに、今は後悔はありません。

そして妊娠、出産、怒濤の育児の日々へ……

 本当に有難いことに、ほどなく子宝に恵まれました。 おなかに子供がいる感覚は何とも神秘的でした。 妊娠15週あたりで胎動が感じられはじめてからは面白くて面白くて丸々1日ずーっと仰向けになって、お腹に手を当てて、そのぐにょぐにょした動きを楽しんでいました。 せっかちな私にとって、人生で唯一のの〜んびりした時間を過ごしました。 たまにスーパーに行く以外は家で好きなだけ趣味に没頭したり、時には夢であった漫画喫茶に丸1日は入り浸ったり……まさにお気楽妊婦ライフ(=怠惰な生活)を満喫させていただきました。

 しかしながら、月満ちてきて、おなかが巨大に膨れていくにつれまるで分厚いすもうとりの着ぐるみを着ているような不自由な状態になりました。 洋式便座でおしりを拭くのも一苦労、靴下をはく時も足先に手が届かずゴロンと後ろへ転がってしまうこともしばしば……。 しかも、ほぼ生まれても良い時期にある胎児は(特に我が子に限っていえば)猛烈に勢いが良いときます。 パンチ、蹴り、頭突き、ひっかきetc... ありとあらゆる攻撃が自分の体内の敏感な粘膜に執拗に加えられるのだから、たまったものではありません。 寝ていても、猛烈な蹴りを下腹にお見舞いされ「おう!」と叫び声を上げて起こされてしまったことも何度かありました。 まさにエイリアンが体の中に巣くったような感覚。 もうこりゃたまらんと一刻も早く産まれ出ることを祈っていると、そんな気持ちを見通すのかグリグリグリッとえぐるようなパンチを繰り出されたり……。 ちなみに32週まで逆子だったのですが、逆立ちをしていたら頭位に戻りました。 このアクロバティックな逆子対策については、またいつか詳しく書く日が来るかもしれませんね(……ただし紙一重の危険な技なので、おすすめはできませんが……)。

 せっかちなので、何度か産気づいたと思い込み産院に門前払いされるフライングをしてしまったのち、予定日の一週間前にいよいよ本格的な陣痛が。2001年3月5日、月曜日の昼3時過ぎ、ひときわ大きな産声を上げて菜々子(3000gジャスト)が産まれたのでした。

 ひっしのパッチで、助産婦さんにも「いきみ上手」と絶賛されて産み上げた私は、心地よい達成感と1リットル以上も出血していたため朦朧とした意識の中で、ただただ局部がとんでもないことになってそうだという感覚が少しある状態で漂っていました。 これで楽しかった妊婦生活は幕を下ろし、もう全てが終わった気がしていました。

・・・でもそれは幻想でした。それは、これから始まる怒濤の育児ライフの序章に過ぎなかったということに、わずか6時間後、気付くことになるのでした。

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